県指定

由来ははっきりしない。古老の話によると「慶長3年(1598)豊臣秀吉が朝鮮出兵の時、島津義弘公に従い、硫黄島から長吉延、岩切、芥切の3人が従軍し、泗川の戦いで窮地に落ち込んだ義弘公を助けて戦功をたてた。これにより恩賞を賜り大いに面目を施したので、その凱旋祝としてこの踊りを奉納するようになった」という。踊りは、毎年旧暦8月1日と2日の両日にかけて熊野神社に奉納した後、集落の各所を踊ってまわる。

この踊りは、面踊り・相撲踊り・大名行列・長刀踊り・弓矢踊りの5種からなる。昔は、旧暦8月1日に奉納していたが、現在は9月1日になっている。この5種の中で特徴的なものが「面踊り」で由来ははっきりしないが、子孫繁栄と五穀豊饒を祈る踊りといわれている。
村指定

いつ建てられたかは定かではないが、大昔、大浦と言うところ(今の東泊辺)に溜池があり、その周りが落ち込み、竜神が現れ、化して石になったという。そのとき、神のお告げがあり、この神社を建立したと言われる。

仏教では、人間が死ぬと、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道のどれかにいくとされる。六道のどこにいても救いの手をさしのべるのが六地蔵。墓地入口や路傍に多く立っている。天正12年(1584)の彼岸に建立。

安徳帝の御所を黒木御所と呼ぶことにした。この周囲を屋敷割りして重臣たちが住み、御所を守護していたと伝えられている。御所跡は長濱氏の邸に一段と高く残っている。

治承元年(1117)平清盛は、鹿ケ谷荘(鹿の谷荘)での平氏打倒の陰謀を知り、平判官康頼、丹波少将成経、大僧都俊寛を鬼界ヶ島(今の硫黄島)に流刑する。翌年、中宮徳子の安産祈願のための大赦により、康頼、成経の2人は赦免されたが、俊寛だけは許されなかった。俊寛は、治承3年(1179)37歳で亡くなった。島の人々は、俊寛の死を哀れみ、3人を合わせて祭り、俊寛の居住跡に御祈神社を建てた。これを俊寛堂という。

硫黄大権現宮とも呼ばれ、安徳帝晩年の皇居跡とも伝えられている。治承元年(1117)鹿ヶ谷荘での平氏打倒の陰謀を知った平清盛は、藤原成経、平判官康頼、大僧都俊寛の3人を鬼界ヶ島(今の硫黄島)に流刑された。成経と康頼は早く許されて都に帰れるようにと紀州熊野三所権現を勧請してここに祭った。後に文治元年(1185)安徳帝が居住されてから、来真三種権現(くまさんしゅごんげん)と改められ、三種の神器を内陣に祭られた。

文治元年(1185)3月25日、長門壇の浦における源平の一大決戦で平家は滅び去った。このとき、二位の尼に抱かれて入水したはずの安徳帝が硫黄島に逃げのび、しかも後年、資盛の娘櫛匣の局をお后として隆盛親王が誕生した。その子孫が現在の長濱家であると言われている。寛元元年(1243)66歳で生涯を閉じた。(「三島村誌」)68歳でなくなった。(「鹿児島の湊と薩南諸島」)

竿石の高さ1.15m、横0.25m。将棋の駒型をしている。上部に刻み目があり、正面中央に金剛界大日如来を表す梵字が見事に彫られている。島の人は梵字を「読めない花文字」といい、この碑を「いぼの神様」と称して、初水を持っていって供え、いぼが無くなるように祈っている。この板碑は、長濱家十代権之助吉近が父九代権太左衛門吉壽のために、供養碑として建てたものと思われる。

昔から九郎大明神とも黒尾大明神ともいわれている。文禄4年(1598)以来の棟札があるが、古い記録には祭神不明とある。
祭祠は、2月9日、9月10日、11月10日の3回である。

冠岳(今は崩落してない)の頂上付近にあった神社。古来、天狗神を祭ってあると伝えられている。小さな木造の社が3つあり、左を太郎坊、右を次郎坊という。神体は自然石(100余り)である。昔から(島民に)畏敬されており、参拝のとき身を洗い清め裸足になっていくところであった。戦前は、出征兵士の無事を祈願し、戦後は、島を離れる若い人たちの健康と幸運を祈願し、白旗1本を奉じている。※冠岳は崩落したが、この神社だけは難を逃れたので、近くの安全な場所に移設されている。

文治4年(1118)、源氏の武将宇都宮信房が、平氏打倒に連れてきた勇士一族の大庭三郎家政は、平家の美しい娘に恋をし、打倒軍引き上げの後も島に残り、娘と夫婦になり、日暮村で暮らした。村人は、「大庭ドン」と呼んでいたが、いつしか訛ってイバドンになってしまった。大庭三郎の死後、そこに墓が建てられた。日暮村一の美女を見初めた人と言うことで、この墓を掃除するときは、若年の少女ほど墓に近づけたという。6月23日には、片泊の女性は、この墓を掃除し、花や団子を供え踊りを奉納する。

「三国名勝図会」に祭神不明、神体鏡二面、自然石16体とある。寛永6年(1629)以来の棟札に、黒島大明神とも、黒島菅尾大明神とも書いている。祭祀は、2月10日、9月11日、11月11日で年3回行われている。

この踊りは、面踊り・相撲踊り・大名行列・長刀踊り・弓矢踊りの5種からなる。昔は、旧暦8月1日に奉納していたが、現在は9月1日になっている。この5種の中で特徴的なものが「面踊り」で由来ははっきりしないが、子孫繁栄と五穀豊饒を祈る踊りといわれている。

古い時代から、人々の霊を慰めるために踊ってきたと思われるが、現在は俊寛の霊を慰めるための柱松行事と一緒にしている。柱松は、高さ16mと8mの2束。枯れた大名竹を束ねたものである。8月15日の夜、この2束に火がついて燃え始めると盆踊りの始まりとなる。

古来疱瘡で死ぬ人が多く、竹島で最もひどかったのは、享保11年(1726)と寛政5年(1793)であった。享保11年の死者は住民の25%、寛政5年には25戸のうち8戸は疱瘡で死亡し、1戸は島外に逃げ移った。この年から疱瘡を鎮めるための婦人の踊り「馬方踊り」がはじまった。毎年1月21日と22日に聖神社で踊り継がれている貴重な無形民俗文化財である。

先祖代々受け継がれている盆踊りであるが、記録もなく由来もはっきりしない。踊りは、太鼓踊り・笠踊り・供養踊り・棒踊り・京の姫・石童丸・婦人の笠踊り・手踊り等種類も多い。踊りの内容からして、古い時代から人々の霊を慰め、家内安全、五穀豊饒、疫病等にかからぬよう全てを祈願する踊りといえよう。
